3280125 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

老子とトルストイ。

Zhuangzi
今回は、基本的に荘子はお休み。

今日はちょっと変り種。
トルストイ・小西増太郎 共訳 『老子道徳経』。
というわけで、この本です。
日本古書通信社から出版されたもので、著者は木村毅さん。原版のタイトルはロシア語。貴重な本ですが、福岡市総合図書館にはあります。

トルストイ。
実はこれ、今年が没後100年(昨日11月20日がちょうど100年)にあたるトルストイと、モスクワ大学の留学生であった日本人・小西増太郎という方の共訳であります。トルストイが手がけた『老子』のロシア語訳なんですよ。

参照:レフ・トルストイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4

マルティン・ハイデガー。
マルティン・ハイデガーも1949年に『老子道徳経』の翻訳にあたっていますが(ま、ハイデガーの場合、パクったんだから当たり前・笑)トルストイが『老子』の翻訳を試みたのが1884年。小西増太郎と共同で翻訳を手がけたのは1892年。年代が違いますね。

参照:当ブログ ハイデガーと荘子 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022

トルストイ 年譜
http://pliocena.com/ticket/tolstoi/tolsto_c.html

坂本竜馬。
ちょうど、来週で『竜馬伝』も終了しまして、100年前の日本を考える上でも面白い素材なんですよ。トルストイの老子は。

参照:荘子、古今東西。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038

トルストイは敬虔なクリスチャンとして知られていますが、インド哲学や中国の古典にも精通しておりまして、特に評価が高いのが孔子、孟子、墨子。で、偏愛したともいえるのが老子なんですよ。トルストイの場合だと、ショーペンハウアーの哲学やルソーの思想の理解のためにも東洋哲学に傾斜していったようです。ショーペンハウアーの哲学の深層の部分はどうみても『ウパニシャッド』ですからね。ニーチェがショーペンハウアーの真似事やってるのを、東洋的な思想をわざわざ抜いてから平然と引用する日本の学者って、地球何週分のバカなんでしょうか。西尾幹○くらいになると、むしろすがすがしいほどですが(笑)。

参照:Wikipedia アルトゥル・ショーペンハウアー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC

トルストイ。
で、トルストイと老子について。
日本人である小西増太郎とトルストイの感覚の差というのは、

これと、
参照:YouTube Tao te Ching (pt.1)
http://www.youtube.com/watch?v=1BSiZQqlg5E

YouTube 智者老子
http://www.youtube.com/watch?v=KwbbWZftyJ4
これの差なんですが、要所要所の深いところでちゃんと読みぬいているところが素晴らしいです。

≪『いよいよ、実際の訳稿の検討に入って、小西が「道の道とすべきは常の道にあらず」と読み上げると、トルストイがすぐに待ったをかけた。「支那語の『道』という言葉を翻訳するのはよくない。英、仏、独訳とも、原語をそのまま用いている。支那読みは『タオ』であるから、これを露読の『ドロガ』もしくは『プーチ』と訳さずに、原音を用いましょう。』といってタオとすることになった。次の句の「名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始めにして、有名は万物の母なり」とある「名」は、「道」とは大いにその趣旨を異にするからというので「名、または無名は『イームヤ』という露語にすべきだ」と断を下した。この一節の結句の「玄の又玄、衆妙の門」にいたって、トルストイは深い感動を示し、「この篇は実に雄大だ。老子の学説の幽遠なところは悉くここから発するのだ」と言った。次章の「天下、皆、美の美たることを知らば、これ悪のみ。皆、善の善たることを知らば、これ不善のみ。」に対しては「この章も痛快だが、首章には及ばない。しかし言明の仕方は老子独特で、実にいい。真似ができぬ。」と感心した。』(『トルストイ小西増太郎共訳老子解説』より 抜粋)≫

で、
老子。
「夫兵者不祥之器、物或悪之、故有道者不処。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不之器、非君子之器。不得已而用之、恬淡爲上。勝而不美。而美之者、是楽殺人。夫楽殺人者、則不可以得志於天下矣。」(『老子』 第三一章)
→兵は不祥の器である。人は普通これを嫌い、道を心得た者はこれを用いない。君子は普段左を貴ぶが、事あるときは右を貴ぶものだ。兵は不吉な器であるので、君子ならば使うべきではない。やむを得ず使うことがあろうとも、執着なく使うことが望ましい。たとえ勝っても美徳とはならない。これを徳などとする者は、殺人を享楽とする外道であろう。人殺しを楽しみとするような者が、天下を望んだところで、到底成し得るはずがない。

これの訳でトルストイはこう言ったそうです。

≪『トルストイは拍案して、とびあがるように喜び、「これは痛快だ。ここまで極論するところが老子のえらくて、尊い所以である。三千年前に、こういう非戦論を高唱するとは、敬服の他ない。孔子は中庸主義の政治哲学者であったから、いつも世とともに上下したが、老子は純粋な哲学者であったから、政治なんかは眼中になかった。」と激賞してやまなかったが、すぐにそれに次いで「やむことを得ずして、これを用いれば・・・」の句を見るに及び、トルストイは急に不満の色を表し、「何だって?『やむことを得ずしてこれに用うれば』とは、これは取りも直さずコムプロマイズだ。『兵は不祥の器』だと断言しておいて、まだその舌の根もかわかぬうちに『やむことを得ずして』とはけしからん。老子ともあるものが、こんなことを言う道理がない。ここには何か誤謬があるのではなかろうか。そもそも後世の学者が付け加えたのか。とにかく研究が必要だ。この晩はこのコムプロマイズの問題で終始して、訳分の訂正どころではない。』≫

さすがにここはトルストイも頑固です。
トルストイ。
≪「戦争は大規模な喧嘩だ。人の国を奪って、自分の国にしようという不徳義な考えから起こる争いだ。この争いには、あらゆる罪悪がともなう。何とかしてこの罪悪を世界から駆逐したいものである。そうするには『やむことを得ずして・・』というような手ぬるい事では、目的達成はできぬ。老子ともあるものが、こういう議論をしようとは、どうしても考えられぬ。」と、興奮して論じて、ほかのことは耳に入らなかった。』(以上、同著より)≫

当時、西洋になかなか見られなかった「平和思想」にトルストイが関心を持っていたというのは、興味深いものです。どうも最近の日本では官房長官が『自衛隊は暴力装置』と言っただけで問題とするようですけどね、ま、自衛隊が全くを暴力をふるわないなら、水鉄砲でも持たせてやればいいと思いますけど(笑)。

トルストイと言えば『イワンの馬鹿』という有名な小説がありますが、あれって、『老子』を読んだ後だと読みやすいと思います。

あとで推敲予定。
今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.